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2000年7月

The Way to the Death - 死へと至る道 2000.07.31 死ぬ前に聴いておくべき音楽

Dmitri Shostakovich, String Quartet No.15

ショスタコーヴィチ最後の弦楽四重奏曲である。演奏は、ボロディン弦楽四重奏団のものをお勧めする。

冒頭の数小節を聴くだけで、この曲が、死を近しく感じていた者の手によるものだと分かる。ノン・ビブラートの音は、脂気も水気も失い、もはや死を待つばかりの病人の手を思わせる。

何の虚飾も意味をなさない。すべてをはぎとって、大切だと思われたものもすべて捨てて、そして残ったもの。それが音となっている。

しかし、音に乗せられている思いは決して天上へは向かず、虚空に漂ったまま。救いを求める手は、決して、他人の手を取ることなく、中途半端に持ち上がったままである。

終楽章、各パートの助けを求める声は、地を這うにとどまる。最後まで、叫びを向ける方向さえ分からぬまま、ゆっくりと息を吐きながら死を迎えるかのように、消えゆくような和音で全曲を閉じる。

この作品は、ショスタコーヴィチの死の前年あたりに書かれたとされている。もはや健康の衰えはひどく、死の足音は彼の耳にはっきりと聞こえていたのだろう。

70歳を目の前にした作曲家には、死は決して強いおそれを抱かせるものではなかったが、無にとりこまれつつあるという抗いがたい不安と絶望と孤独を、政治に奉仕する曲を世に送り出した報いとして味わわねばならなかった。

そう思える。

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The Way to the Death - 死へと至る道 2000.07.30 死ぬ前に聴いておくべき音楽

Dmitri Shostakovich, Symphony No.15

ショスタコーヴィチの最後の交響曲である。

終楽章の最後で打楽器が刻むのは、呼吸、そして、心臓の鼓動。徐々に音が間引かれていく。それはあたかも、鼓動が徐々に弱まっていくように。

そして、チェレスタの和音で全曲が終わる。それは、最後の息を吐く音。この息を吐くことで、生まれてからずっと、絶え間なくしてきた呼吸という作業を、人は終えるのだ。もはや、胸は上下することなく、永遠の安息がその人に訪れる。

なぜ、それに気づかない人が多いのだろう。

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The Way to the Death - 死へと至る道 2000.07.29 死んだ後で聴く音楽(補足)

前回取り上げた、マーラーの交響曲第10番の各楽章に、勝手に副題をつけてみた。

第1楽章…煉獄

第2楽章…天上での天使の踊り

第3楽章…地上からの便りを運ぶ郵便馬車

第4楽章…ある男が生前を思い出す

第5楽章…清められる魂

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The Way to the Death - 死へと至る道 2000.07.28 死んだ後で聴く音楽

Gustav Mahler, Symphony No.10

この曲は、生きている間に聴く曲ではない。もちろん、死んでしまったら、楽曲を聴くことはできないから、それは矛盾である。しかし、第5楽章、一番最後の部分を聴くと、この曲は、生きている人間の聴く音楽ではないという思いが生じる。

交響曲第9番までは生きていても聴ける。しかし、第10番は、第2楽章をはじめ、すべて天上で聴くもの。生きている間に聴くものではない。

第1楽章17分~18分あたりで、10数小節にわたって鳴り響く喇叭は、地獄の門番の吹き鳴らす開門の合図。続く弦の各パートのユニゾンは、地獄からの叫び声。

マーラー自身は、第2楽章のスコアの冒頭に、「悪魔が私とともに踊る…」と書いたそうだが、しかし、できあがったものは天使の乱舞であった。第2楽章を聴いていると、その姿が私にははっきりと見えるのだ。

こう言えるかもしれない。第9番の第4楽章の最後は、聴いて死ぬためのもの。第10番の第5楽章の最後は、死んでから聴くためのもの。

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The Way to the Death - 死へと至る道 2000.07.27 死ぬ前に聴いておくべき音楽

Alban Berg, Violin Concerto

グロピウスとアルマ(マーラーの妻)の間に生まれたマノンは、美しい少女だった。しかし、17歳にして脊髄性小児麻痺で死ぬ。

Bergは、彼女に「ある天使の思い出に」という副題を付けたこのバイオリン協奏曲を捧げる。しかし、その4ヶ月後、Berg自身もこの世に別れを告げることになる。

終始、諦めに似た感情が聴く者の心をとらえて離さない。第2楽章の最後、独奏バイオリンと木管が、彼女の魂が天上に向かっていく様子を描き出す。静かに、そして、満ち足りた様子で。

両大戦間のウィーンでのこと。まだ、この世に、物語があった頃のお話である。

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The Way to the Death - 死へと至る道 2000.07.26 なぜ、番号ではなく日付を用いるのか

このメルマガの前身である「警部の東京日記」は2回の号外を除いて、すべてに通し番号をふっていたが、このメルマガは日付でファイルを管理している。理由は、いつ終わるか分からないからである。このメルマガは、何かを積み上げていくために書かれているのではないからである。逆に、今まで積み上げてきたものを一つ一つ解体する作業であると言えるのかもしれない。

だが、強調しておきたいのは、決して解体したいわけではないことだ。さらに積み上げていくべきことはたくさんあるのだが、しかし、それには疲れたのである。

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The Way to the Death - 死へと至る道 2000.07.25 コミュニケーションは命がけ(2)

コミュニケーションが深くなっていくと、心の重要な部分がその相手に向かって開かれていく。いいことである。心が開かれていくにつれて、感情の交流もまた深くなっていく。

しかし、いいことばかりではない。深くなっていったコミュニケーションの場では、言葉に大変重要な意味が乗せられることがある。「あなたならば、これが分かるはず」ということが言えるような間柄になっていくにつれて、「なぜ、分かってくれないのか」と言えるようになるということだ。

もちろん、そういう言葉が言えるだけコミュニケーションが深くなったのならば、前回書いたように、コミュニケーションを続けていくことで、実はほとんどの場合、問題は解決する。それが、ベストの解決方法であることは言うまでもない。

ただ、コミュニケーションを続けていくことが苦痛を伴う場合は、その限りではない。それ以上、言葉を交わし続けることによって感じる「痛み」が、それまで積み上げてきた関係から受ける快さを上回ったとき、人は人との関係を絶つ。それが、正解である。

そして、関係を絶てないほど、深くなったコミュニケーションの中で、苦痛を感じるようになったとき、人は追い込まれる。逃げ場の一つが、このメールマガジンのタイトルとも関係するが、死、である。「何を極端な」と思う方が多いだろう。でも、実際にそう考えている人間が、ここに少なくとも一人はいるという現実を無視することはできない。

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The Way to the Death - 死へと至る道 2000.07.24 コミュニケーションは命がけ(1)

コミュニケーションをとることは、とても快いことだ。そうは思わない人もいるかもしれないが、少なくとも私にとっては、好意を持って言葉を交わしたり、電子メールを行き来させたり、電話で話すことは心地よいことである。それは、自分の心が、その人に向かって開かれていき、そして、その人の心が自分に向かって開かれていくのが感じられるからである。

コミュニケーションに絶対必要なのは、実は、相手への気持ちや思いやりではない。実際に、伝達手段を使用することである。家族や恋人に、特に何も伝えたいことがないのに電話したりメールを書いたりした経験のある人は多いだろう。他人から見ると、他愛のない話をしているとしか思えない本人たちの間で交わされる言葉は、内容以上の意味を持っているのである。

数年前に、ある人が「コミュニケーションでもっとも大切なのは、続けていくことだ」と言ったのを聞いたことがある。どちらかが、あるいは両方が「大切なことが伝わっていない」と感じても、それでもなおコミュニケーションを続けること。それが最も重要なことなのである。それによって、片方の、あるいは両方の心の変化を待ち、さらに深いコミュニケーションがとれるようになることもあるのだ。

しかし、そういったコミュニケーションにも落とし穴はある。

(続く)

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The Way to the Death - 死へと至る道 2000.07.23 死ぬ前に聴いておくべき音楽

クラシック音楽を聞き慣れていない人には謝るしかないが、マーラーの交響曲第9番をバーンスタイン指揮ベルリン・フィルで聴いていただきたい。

グスタフ・マーラーは、これを作曲した当時、心臓病で死の訪れを感じざるを得なかった。さらに、若き妻アルマは、若い建築家のグロピウスと深い仲になっており、これもまたマーラーに苦悩を与えるものとなった。

ウィーンの国立歌劇場音楽監督時代には、オーケストラとの練習中に、市電の走る音がうるさいからといって、通りに出て止めようとしたのは有名な話である。そんなマーラーに、自分の死を想わざるをえない時が来て、いったい何を想ったのか。

バーンスタインは、生前のカラヤンにとって、目の上のたんこぶだった。手兵のベルリン・フィルには、決してバーンスタインを客演指揮者として呼ぶことを許そうとしなかった。後にも先にも、このディスクに録音された1979年10月以外に、バーンスタインとベルリン・フィルの組み合わせは実現しなかったのである。

弦楽器の下降音形が「もう終わりだね」という確認を執り行う第1楽章。死地に赴くときに、インテルメッツォとして奏でられる第2楽章。ふと語り始めただけなのに、最後には激高して生の矛盾、死の合理性を説く第3楽章。「ずっと生きていたいが、それはかなわないこと」という呻き、自分以外に理解を求めることの空しさを深く感じさせる第4楽章。

そう。チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」と、曲の構造が似てはしないか。「悲愴」は、第3楽章と第4楽章の間に時間をおかずに演奏されることが多い。私は、この、マーラーの交響曲第9番の第3楽章と第4楽章の間も続けて演奏されるべきだと思う。このディスクでは、第3楽章と第4楽章の間に10数秒のブランクがあるが、それに違和感を感じるくらいである。

華やかな行進曲の後は、埋葬の歌。生の隣に、死。それが定めである。

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The Way to the Death - 死へと至る道 2000.07.22 まずは口上を

いや、そんな口上など述べている時間はない。もっとも理解してほしい人に理解されない言葉と感情が、私の内臓を腐らせているのだから、急がねばならない。「また、来週ね」とか「9月になったら」などという甘言にだまされてはいけない。来週には、私はきっと棺桶の中に横たわっているだろう。9月には、墓石に名前を刻まれていることだろう。だから、今、聞く耳を持っている人にのみ、伝えねばならないのだ。

そう考えて、このメルマガを始める。

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警部の東京日記 号外 リニューアルのお知らせ

まず、3ヶ月もの間、配信できずにいたことを、楽しみにしてくださっていた方には、お詫び申し上げたい。それまでここに書いておきたかったことを聞いてくださる方が現れたために、そちらにすべてのことばが自然と向かっていったのである。

ただ、私には、どうしても伝えておかねばならない、少なくとも、480人ほどの登録してくださった人の1%ほどの方には、どうしても知らせておきたいことができた。そして、それは今までの「東京日記」でお伝えしてきたこととは、まったく異なる観点から書かれることだろう。そのため、私は、「東京日記」をこの号を持って休刊とし、次号よりまったく異なった目的と内容を持ったものとして配信することとしたい。

本来ならば、このメルマガを廃刊として、新たにメルマガを申請するべきなのだが、よんどころない事情で、あまり時間をかけることができない。不愉快に思われる方、失望される方がきっといらっしゃるだろう。それらの方とは、縁がなかったのだから、どうぞフッタにある「購読中止」のところで手続きしていただきたい。

なお、来週は、毎日届くような量を配信するつもりだが、若干、アドレスを整理させていただく。特に、私と直接面識のある方のアドレスは、削除させていただくことを基本としたい。理由は、もし引き続きお読みになっていれば、分かることである。

では、長々とお付き合いいただいた方には、心からの感謝を捧げて、「東京日記」を閉じたい。

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