自動削除されそうなので…
ちょっと更新しておきます。
しかし、未更新だと削除されるとなると、ログ置き場には向かないなあ。
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みなさん、お久しぶりです。銭が足らん警部です。
「何だ、まだ生きていたのか」という声と、「お元気ですか?」という声の両方が聞こえてくる気がするのは、たぶん空耳ではないでしょう。それほど元気というわけでもありませんが、一応、ぴんぴんしています。期待していた方、ごめんなさい(笑)。
さて、この「警部の東京日記」と、それをリニューアルした「The Way to the Death」ですが、仕事とプライベートの両方が忙しくなってしまい、半年以上、放置せざるをえない状況でした。しかし、「まぐまぐ」でメールマガジンが発行停止になったり(長期にわたって発行していなかったため)、発行が滞っていた間に読んだ本もずいぶんたまったり、知人から「また書いたら?」と勧められたこともあって、何とか「えいやっ」と再リニューアルすることにしました。
今度のリニューアルで、切り口は元に戻すことにしました。名称も「新・警部の東京日記」とし、哲学や思想関連の本を中心に、文学や音楽など、私の興味のおよぶ範囲のことを縦横無尽に書いていくことにします。音楽の話も、実はいくつか配信していないものがあるのですが、それはそれで、機会があればここでご紹介することにしようと思っています。
個人的な環境としては、いくつもの波があって、大変な苦しみを味わっているときもあれば、大きな喜びを味わうこともあって、「最近、退屈だなあ」などと思う暇はまったくありません(苦笑)。この生き方を変えることはできないし、変えるつもりもありませんが、少し客観的に見たときに、「もう少し楽にならんものかな」と苦笑いせざるを得ません。
ただ、息詰まるほどの緊張と真剣さの中でもがいている者にしか理解できない「場所」があることは、この半年間、ずっともがき続けてみて、はっきりとわかったような気がします。
このメールマガジンが、生きるのに言葉を必要としている人のもとに届くよう祈りながら…。
●●●●●新・東京日記短信●●●●●●
東京はめっきり暖かくなってきましたが、みなさんのお住まいの場所ではいかがでしょうか。先日、上野公園をぶらつく機会があったのですが、もうちらほらソメイヨシノが花を開いていました。今週末が見頃でしょうか。
日本では、毎年、3万人が自殺で亡くなっている。その3万の死を、ある程度分類することはできよう。しかし、それは傍観者のやることである。ひとりひとりを見ると、そこには3万通りの死があるとしか言えないのである。
「死ぬ数日前から、ぼうっとしていた」と言われる死に方がある。もしかすると、今は少なくなっている死に方なのかもしれないが、しかし、今でも、そこからつながる死を迎える人は少なくないだろう。
彼らが何を考えているのか、ぼうっとしていたときに何を思っていたのか、今の私には理解できる。いつも分かるわけではないのだが。
自分の気持ちを死に慣らしているのだ。静かで何もない場所への移動を、いや、場所と言うことはできない、いわく言い難い、ある状態へと自分が変化していくのを受け入れようとしているのである。だから、何を見ても、本当には見えていないのだ。見ないようにしているのだ。
そして、誰かが話しかけても、うわのそらのこともある。それは、他者を自分の中から追い出して、すべての関係という関係を自分の中だけに閉じこめておきたいという気持ちの表れである。
こう書いても、これを読んでいる人の大半には伝わらないはずである。ただ、何人かの方に共感していただければ、それでいいと思っている。
Dmitri Shostakovich, String Quartet No.11
第2楽章。
「違う、そうじゃない」を何度も口走る男。語ったイメージに対して同意されると同時に、意図通りのイメージが伝わっていないことに気づく男。
力無く、しかし執拗に否定するが、なおも誤った理解しか得られぬことにいらだちを感じる第3楽章。理解を拒否し、自ら道のないところに足を踏み出す第4楽章。そして、第5楽章では、警告のブザーが鳴り響き続ける。
全曲は、無責任な言葉を吐く1.Vnに翻弄される第7楽章によって閉じる。2.Vn以下、低弦の「それが何になる」というつぶやきは、どこへも行かず、そこで消える。
Dmitri Shostakovich, String Quartet No.14
第2楽章。
2:00あたりから1.Vnが描くのは、自分の影法師を捕まえようとする男の姿。チェロを伴った分散和音が、よろめきつつ、自分の影法師を自らの手で(足ではなく)捕まえようと腰を折る男の、惨めな姿を描く。
4:20あたりで、男は闇の中へと口笛を吹く。視界は徐々に黄色く濁って、足取りもますます重くなっていく。石畳の上によろめく男の弱々しい足音。立ち止まり、軽く嘔吐する男。
それでもなお、影法師を追うのを止めず、息を深く吸い込みつつ、苦しさに耐えながら、どこへともなく歩み続ける。立ち止まって、少し横になればいいのに。心の中で、そう語りかけてくる声に耳を貸さず、歩み続ける男。
救いは?目的地は?
答えられない男の重い歩みは、そのまま、第3楽章に。そこで、男の背後にいる天使、男を冥府へと導く天使が、男を見下ろしている。
Gustav Mahler, Rueckert-Lieder
カラヤン指揮ベルリン・フィル、クリスタ・ルートヴィヒ(メゾ・ソプラノ)のディスクをお勧めする。
第1曲"Ich bin der Welt abhanden gekommen"より。
世間は私を忘れてしまった。
それにかかわってしまったために、長い時間を無駄にしてしまった。
もう長い間、私のことは噂にものぼっていない。
私はもう死んでしまったのだと、世間は思っているかもしれない。
世間が私を死んだと思っているかどうかは、
まったくどうでもいいことだ。
私も、それについて何も言えない。
なぜなら、私は本当に世間にとって死んでしまったのだから。
騒がしいこの世に対して、私は死んでしまい、
静かなところに休んでいるのだから。
私は一人、私の天国に、
私の愛の中に、私の歌の中に生きている。
(translated by me, Macbeth)
遁世詩人の歌。
そうとるのが当たり前の解釈だろう。しかし、私はそうは思わない。
耽美主義の発露に思うかもしれないが、しかし、それは誤っている。
徹底的に一人で、何にも頼ることができず、何にも頼られることなく、ただ一人、夜を過ごすことしかできぬ者にのみ理解を許す言葉、そして、音楽。
真に心慰むるものは何か。それが死である者にしか、理解を許さぬ言葉、そして、音楽。
人知を過ぐるものの存在を知る者にしか、在処さえ見えぬ言葉、そして、音楽。
知りたき者は歩め。いたずらに日を重ねる場所には、決してとどまらぬ言葉、そして、音楽。
世の不如意を嘆く者には開かれぬ場から、あふれ出る言葉、そして、音楽。
Janacek, String Quartet No.2 "Intimate Letters"
第3楽章の切々たる懇願に耳を奪われる。作曲者は、38歳年下の人妻に600通を超える恋文を送り続けた。この曲もまた、彼女への想いに満ちている。しわがれた声で、しかし、手を変え品を変え、恋をささやき、求め続ける男。
内省的ではあるが、自分の内面から外界に向かう言葉を探し求める男の姿が、そこにある。そして、男は、それを相手の女に向けて送り続ける。社会的束縛が及ばない場所から発せられる声が全曲を包み込んでいることに、果たして何人の聴衆が気づけるのだろうか。
ふと思ったのだが、ヤナーチェクの想いは報われたのだろうか。600通以上も恋文を送った結果、コミュニケーションをとるに至ったのだろうか。そこまで心を開いた結果として、相手が心を開いてくれなければ、自分が贈った言葉がすべて腐敗したものとなって、帰ってくるはずである。
それに耐えるのは、とても大変なことである。普通の感受性を持っている人間には、とうてい無理だろう。あるいは、贈った言葉が、単に相手の気を引くための手段でしかなかったのならば、それはもともと無機物であったのだから、腐敗などしないだろう。
もし、自分が相手に贈ったものが、最高の食材を用いたものであり、それゆえに、すぐに腐ってしまうものであるのに対して、相手から返ってきたものが、レストランのサンプルのように、見かけだけで食べられないものだったら…。
今、私がしている経験はそうでないことを祈るしかない。
Dmitri Shostakovich, String Quartet No.15
ショスタコーヴィチ最後の弦楽四重奏曲である。演奏は、ボロディン弦楽四重奏団のものをお勧めする。
冒頭の数小節を聴くだけで、この曲が、死を近しく感じていた者の手によるものだと分かる。ノン・ビブラートの音は、脂気も水気も失い、もはや死を待つばかりの病人の手を思わせる。
何の虚飾も意味をなさない。すべてをはぎとって、大切だと思われたものもすべて捨てて、そして残ったもの。それが音となっている。
しかし、音に乗せられている思いは決して天上へは向かず、虚空に漂ったまま。救いを求める手は、決して、他人の手を取ることなく、中途半端に持ち上がったままである。
終楽章、各パートの助けを求める声は、地を這うにとどまる。最後まで、叫びを向ける方向さえ分からぬまま、ゆっくりと息を吐きながら死を迎えるかのように、消えゆくような和音で全曲を閉じる。
この作品は、ショスタコーヴィチの死の前年あたりに書かれたとされている。もはや健康の衰えはひどく、死の足音は彼の耳にはっきりと聞こえていたのだろう。
70歳を目の前にした作曲家には、死は決して強いおそれを抱かせるものではなかったが、無にとりこまれつつあるという抗いがたい不安と絶望と孤独を、政治に奉仕する曲を世に送り出した報いとして味わわねばならなかった。
そう思える。
Dmitri Shostakovich, Symphony No.15
ショスタコーヴィチの最後の交響曲である。
終楽章の最後で打楽器が刻むのは、呼吸、そして、心臓の鼓動。徐々に音が間引かれていく。それはあたかも、鼓動が徐々に弱まっていくように。
そして、チェレスタの和音で全曲が終わる。それは、最後の息を吐く音。この息を吐くことで、生まれてからずっと、絶え間なくしてきた呼吸という作業を、人は終えるのだ。もはや、胸は上下することなく、永遠の安息がその人に訪れる。
なぜ、それに気づかない人が多いのだろう。
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